増大する主観性と議論の重要性
kiyukai Admin2020-02-20T00:17:32-08:00「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」 上記はニーチェの言葉ですが案外事実と思っているものは他者から見ると全く違う事実があったりします。痴話喧嘩かと思い聞いていたら男の方が付き合っていると思っていて、女の方が友達だと思っていたなんて事に遭遇した事はありませんか?こんな事にニーチェの言葉を借りるのも何ですが二人の間には違った事実という幻があって、他者から見ればデートに行ったと言う行動の意味の二人の解釈が違っただけです。 話は痴話喧嘩から壮大になりますが世界の流れ、または問題をみて思ったのは多くのこれらの事象は主観性によるものではないかということです。北米では移民の流入によりかつての規範となってきた北米の客観的事実が通用しなくなりました。これは客観的事実と言うものは全ての人に適用することはとても難しく、それぞれの国が宗教的、文化的な考えに基づいて長年の歳月をかけて育んできたからです。言い換えてしまえば同じ国と言う背景があると解釈が似るためにそれが事実であると錯覚していると言うところでしょうか。移民による客観的事実の乱立により多くの北米の方々は主観というものに頼るようになってきました。そして、それに加えソーシャルメディアにより主観性はより強まり、加速してしまったのがLGBTムーブメント、フェミニズム、マイノリティ文化だと私は考えております。私自身は来るもの拒まずのスタンスなので静観するのみですが、異なる人が交わるという事は主観のぶつかり合いでは達成されないという事は実感しています。上記の痴話喧嘩が上手く収まる事がありますか?本質を見てしまえば上記の問題も痴話喧嘩も何ら違いません。思想、背景が違う人達が同じ事象を各々解釈し自分の意見のみを主張していると言うだけです。 意見の主張といえば私が良く感じるのは議論というものが昨今とても難しくなったということです。主張の最初に「マイノリティの私としては」、「LGBTQの一人としては」などつけられると、その主張に対する反論がアイデンティティの否定に直結してしまうため議論ができずに主観的な主張のみが乱立してしまう世の中になりました。また正しいポリティカルコレクトネスなら良いですが、言質取りとして発言者が差別的な意味合いを込めていないにも関わらずバッシングをしてしまうのはどうかと思います。そうなってしまいますと発言の内容には誰も関心をむけませんから。このような状況はこれから加速していき個人の面でもビジネスの面でも気をつけるべきことになると予測しています。また、これらの流れがここ数年の極右、極左政権の台頭に繋がってきているのではないでしょうか?議論によって妥協点を見つけマイルドになるべき意見が議論と言うフィルターを通さずに国民の声としてそのまま政権に反映されてしまう少々危険な状況になっているのかもしれません。 かく言う日本もゆとり教育、体罰規制、グローバリズムによりかつての日本人の客観的事実、思想というものが強制されなくなりました。これによって若い世代と団塊世代の大きなギャップが生まれているのでしょう。この流れと海外留学の増加により日本の若い世代が枠にとらわれずに活躍できる機会になることを祈りますが、反面、国内の問題点としては日本へ来る移民の増加により古い世代、新しい世代、移民、の思想の乱立により日本もこれから北米が直面している多くの問題を抱えることになるでしょうか。今の企業の社内規則の厳粛化を見ているとカナダ・アメリカという移民国でさえこの問題を解決するにはまだ時間がかかるなと思います。その結果、規制のみが増えるという生きづらさに繋がってしまうのかもしれませんが、それに適応することにより見える世界もあるのかもしれません。我々ができることとしては議論を通し新しい知識、意見をオープンに取り込んでいき、過去の自分に囚われないという事でしょうか? 企友会理事 山本遼